包義は本名を義三と云い、明治二十七年に岐阜県の牧田村(上石津町から現在の大垣市)に長男として生まれ、小谷家二代目の鍛冶職を継ぐことになります。
後に、刀工を志し栗原昭秀(彦三郎)門人となります。研鑽の効ありて刀工として頭角を現し、昭和十六年九月二十日の第一回師範講習会開講式に参加しています。初期の切銘は「美濃養老住小鍛治包義作」、「美濃養老山麓住小谷包義作」と楷書で切り、後に「牧田住小谷包義作」と、書家の大野百錬より手ほどきを受けたと思われる草書で切っています。昭和二十五年四月、五十七歳で没。弟子の高木義直は終戦で作刀を断念しました。
包義は軍の要請を受け作刀に心血を注いだと云われています。栗原彦三郎が主管する日本刀学院に籍をおき師範として活躍しており包義の作刀技倆は高く、昭和十二年文部省後援で開かれた上野東京府美術館の第二回日本刀展覧会に出品して以来、終戦の前年まで出品を続けられ数々の賞を受賞しています。昭和16年新作日本刀展覧会では第一席の栄誉に浴し、また、昭和十八年四月十日の文部省後援第八回新作日本刀展覧会では、主催者は侯爵大隅信常、陸軍大将荒木貞夫、海軍大将竹下勇、陸軍中将渡辺寿、福嶋保三郎、栗原彦三郎などの著名人で、包義は特選入賞を果たし、聖代刀匠位列では貴品の列に名を連ね最上大業物横綱格の評価を得ています。同年五月には陸軍中将渡辺寿と栗原彦三郎が小谷包義の日本刀鍛錬所を視察しており、包義の名人振りが窺い知れます。また、昭和十七年に頭山満翁米寿奉祝刀寄贈刀匠(刃長八寸八分の短刀八十八振りを、八十八人の刀匠が各一振りずつ打った)にも選ばれています。
名人と云われた包義ですが、昭和二十八年の美術刀剣製作承認による日本刀製作再開を待たずに若くしての逝去が惜しまれます。作品は少なく包義を知る上で貴重な一振りとなります。
小谷包義の銘文
ここに見る包義の作は一般的な軍刀体配とはやや趣を異にしており、長さは短めながら中鋒が延びた姿は明治初年頃の刀を思わせる処があり、恐らく注文打ちであろうと思われます。地鉄は鍛え傷無くよく詰んでいて、刃紋は関の兼元が得意とする三本杉を写しで、元を直ぐに焼出し乱れの刃紋は明るく冴えており乱れの谷には沸が降り積もった雪の如く溜まり、帽子は乱れ込み小丸に返るなど素晴らしい出来となっています。また、本刀は差し込み研ぎであるために三本杉の刃紋が直接見える処など一般の方でも理解しやすい研ぎです。更に幕末頃と思われる時代の変塗鞘打刀拵が付いており、柄巻きは細かな菱で巻き上げ良くできており、鍔は幕末に流行した南蛮鍔となっています。
展覧会受賞歴
s13.11.26 第三回新作日本刀展覧会:第四席金牌 s14.11.26 第四回新作日本刀展覧会:第三席総裁大名誉賞・推薦
s15.03.29 第五会新作日本刀展覧会:第二席推薦
s16.03.27 第六回新作日本刀展覧会:第一席特選
s17.04.02 第七回新作日本刀展覧会:元老名誉作・準元老十二傑作文部大臣賞・特選
s18.04.02 第八回新作日本刀展覧会:貴品の列特選