丹後守兼道(菊紋)以南蛮鉄

銘文:一 丹後 以下切レ/(菊紋) 以南蛮 以下切レ
刃長:67.5cm
反り:0.8cm

詳細を見る

ここに「丹後」以下切れと銘のある刀があり、差し表には「一」、裏には菊紋があります。日刀保の審査では丹後守兼道として保存刀剣に合格しています。初代丹後守兼道であると思います。
丹後守兼道について日本美術刀剣保存協会ではどのように見ているのでしょうか。第45回重要刀剣に指定されている二代丹後守兼道の説明を見ると、「初代兼道は、通説に京二代丹波守吉道の二男といわれ、三品吉兵衛と称した。初代にも年紀作は稀有であり、わずかに寛文年紀のものを見るにすぎない。初代の多くはハバキ下に菊紋と一の字をきり付けるが、二代の作には見られず云々」とあります。
書で調べてみると兼道は銘を、吉道、直道、兼道と改めているようですが、兼道は年紀を切ったものが頗る少なく、僅かに寛文年紀のもがあるだけで、それも二代の代銘が存在するかも不明であり、定説の無いこの丹後守兼道について若干調べてみました。

  • 刀工大鑑(得能一男著)
    (直道 )― 「直道-初代、時代万治。国は摂津。三品丹後守直道・三品丹後守来直道・丹後守兼道、三品吉兵衛。京初代丹波守吉道三男。寛永二年丹後守受領。初銘吉道。次に直道。後に兼道と改める。云々」
    (兼道 )― 初代兼道は時代は慶安、国は摂津。丹後守直道・三品丹後守兼道等と切りる。三品吉兵衛と云い、京初代丹波守吉道の次男。初銘を直道。寛永二年丹後守受領。ほどなく大坂に移住。寛文十二年七十歳にて没す。中心の裏に菊紋と一を切るものが多い。
  • 刀工総覧
    (直道 )― 三品丹後守藤原来直道、延宝六年八月日、菊一文字又は菊ばかりも切る、京二代目丹波守吉道二男大坂に住、後兼道と改む。
    (兼道) ― 三品丹後守藤原兼道、丹後守兼道、京初代丹波守吉道二男菊一を切る、大坂住、寛文頃。「兼道-三品丹後守藤原兼道、丹後守兼道、京初代丹波守吉道二男菊一を切る、大坂住、寛文頃。
  • 新刀弁疑
    (直道)― 直道は摂州大阪の住人 初代丹波守吉道の弟子 丹後守藤原直道と切 又三品丹後守とも銘す 後は兼道と改む 比作地鉄細に強く大乱刃大湾直刃比簾刃丁子乱刃いろいろの模様有 何連も沸匂深く都て丹波守同位の上手也 差表に菊一を切を初代とす。(鎌田魚妙は)「按に丹後守直道吉道と切し事有と見へたり 初代丹波守吉道同時に大阪に来りしならん 三品と号するを以て見れば初代丹波守の弟にや。」とも述べています。
  • 本朝新刀一覧
    (直道)― 丹後守藤原直道と切 裏に菊一を切 寛文の年号切たるあり 後に兼道と切 大阪初代丹波守が門人也。
    (兼道)― 大坂初代丹波守吉道が門人也 初め丹後守藤原直道と切 うらに十六葉の菊と一文字を切 寛文の年号切も有 後に兼道と改む 大坂に住す
  • 校正古今鍛冶銘早見出
    (直道) ― 三品丹後守藤原来直道 菊一文字又は菊計も切 京二代目丹波の二男 摂津に住後兼道に改 寛文。
    (兼道) ― 三品丹後守藤原兼道 丹後守兼道 京初代丹波二男 菊一を打 大阪住 寛永。
  • 古今鍛冶備考
    (直道) ― 三品丹後守藤原来直道と打 菊一文字或は菊とも切 洛陽二代目丹波の次男 三品吉兵エと号 坂陽に住も後兼道と改
    (兼道) ― 三品丹後守藤原兼道 丹後守藤原兼道と打 寛永乙丑の年(二年)受領して菊一文字と切 京初代丹波の次男吉兵衛と号 寛永年中直道と改 摂州大阪に居住し寛文壬子の年(十二年)卒須七十歳 良業。

兼道の没年及び、受領時期を記したものが古今鍛冶備考のみであるが、直道と兼道では別人のよに扱われています。もしも、兼道の没年が正しければ、京二代丹波守夜道の子では時代が合わず、また、受領においても、京二代丹波守・大阪初代丹波守よりも早い時期になっています。

色々と調べているその中で、某刀剣商の通販カタログに、「丹後守藤原兼道 菊一」の特別保存刀剣を二代として載せてありました。
興味深い解説があったので紹介します。『父の初代が70歳で寛文十二年に没した時に、彼(二代)の年紀作には「丹後守吉道四十歳」と刻銘してあるから…(中略)…延宝二年41歳の作に「丹後守藤原来直道」と刻しているから、この頃に「直道」と改銘し、更に…云々』とあります。これからすると、兼道は初代・二代ともに銘を吉道・直道・兼道と改銘しているようです。また、各刀剣書にも、直道・兼道ともに各代を載せています。
カタログの解説額面通りに見るならば、初代兼道は京二代丹波守吉道の子とするよりは、寧ろ同世代に近いように思われます。それにても受領時期は、京二代・大阪初代丹波守吉道が寛永十六年、初代兼道の寛永二年(古今鍛冶備考)は早すぎるのではないか。

高野政賢/昭和四十八年九月日

銘文:政賢作/応須崎進氏需 昭和四十八年九月日
刃長:69.6cm
反り:1.8cm

詳細を見る

応需銘のある高野政賢の刀です。地元の刀剣愛好家の需に応じて打った刀で、今回、ご本人様より申し入れがありました。刀を相続する方がいないと云うことで、思い入れのある刀であるため先々がご心配のようです。後に粗末に扱われては不本意であるということで当店に持ち込まれました次第です。本人曰く、作刀を注文し出来上がった刀は刀匠自身が自賛しており、不要になったら買い取りますと言っていたいたそうです(現在は物故)。刀匠自身満足のいく出来具合だったのでしょう。刀匠の奥さんも良い刀だから大切にしてください云々と言ってたそうです。本刀はさすが注文打ちのことだけに良い出来となっています。現在、日本美術刀剣保存協会で行われている保存刀剣の審査に出しています。
政賢刀匠は刀剣研磨を得意とする人で、砥ぎの師匠の名は忘れてしまいましたが一流の師匠でして、政賢刀匠は砥ぎも上手です。

高野政光/平成廿五年三月日

銘文:政光作/平成廿五年三月日
刃長:21.7cm
反り:なし

詳細を見る

この短刀は、刃長が登録証と現物とに相違がありましたので、3月15日に訂正すべく東京都教育委員会で鑑定審査を受け手続きしました。現代刀でしかも短刀ですから驚きですよ。登録証では刃長が26.7cmとなっていますが、実際の寸法を測ってみると21.7cmで、登録証よりも5cm短いのです。作った本人が登録に行って、登録証を受け取ったのでしょうが、全然内容の確認をしていなかったと言うことですね。

3月27日に埼玉県教育委員会から、訂正された政光の登録証が届きました。

左側の登録証が訂正前で、右側が今回訂正された登録証です。「長さ」のみが変わっています。しかし表には訂正印がありません。裏側はと言うと。

訂正印はなく、新旧何も変わりません。
これは訂正印の押し忘れではなく、故意に押印しなかったのでしょう。平成作の現代刀でこのような記載ミスは登録証を発行する埼玉県教育委員会としては大変に恥ずかしいことですから、初めから訂正などなかった事にしようとしているのでしょうね。

この政光は、本名を高野光治と云い、少年時代は父である久心から作刀の手ほどきを受け、後に高野政賢(東京都青梅市)の弟子となります。埼玉県児玉郡児玉町で鍛刀し、日本美術刀剣保存協会新作展に数多く入選する技量の高い刀匠です。本作は、やや小振りな短刀でフクラが枯れ心となり大左を思わせるような姿形で、小板目に流れ肌交じり、地景が沈む地鉄に湾れに小互の目・小湾れが交じる刃を焼き、小沸がよくつき金筋入り、上出来となっています。